Code for History

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大人として意見を発するということ

4年ほど前に関係を絶った元友人と、長く関係を絶っていたので何が原因だったかもほぼ忘れていましたが、たまたま4年ぶりにブログを覗いてみたら、2022/8/3付の記事として、その時の経緯を詳しく書きかけで残していました。 経緯を思い出したので、ついでに記事を完成させて、2026/4/10に公開します。

元友人S氏の犯した、人を傷つける決めつけと思い込み

元友人だったS氏が、最近発生したある問題について、Facebook上で意見を述べていました。

SのFacebook上の投稿引用
これが何についての投稿か、包括的な妥当性などを論じる前に、まず細部の主張について、言っていることが事実かどうかを確認してみます。

まずS氏は、「誰も傷つけていない立て看板」と書いています。 これは事実なのか? このような意見表明がTwitter上に挙がっています。

「希死念慮」という言葉が使われています。 辞書を引くと、

kotobank.jp

ということで、誰も傷つけないどころか、死にたい気分の人を出すまで人の心を抉ってるということですね。 それも、話題になっているタテカンそのものだけではなく、「タテカンに賛同する人たちの議論」ということなので、まさにタテカンを擁護するS氏のような主張そのものが、極論人を殺そうとしていることが読んでとれます。

続いてS氏が書いている、「その理由が思い込みと決めつけの塊」というのが正しいかどうかの検証のため、このタテカン?が関係するらしい騒動が、当事者の間でどう決着したかを追ってみます。

つまり当事者の方では、S氏が「思い込みと決めつけの塊」と称したタテカンへの抗議声明を読んで納得し、反省して謝罪まで行った上で自主的に撤去したということのようです。 「思い込みと決めつけの塊」ならば、相手を納得させることなどできようはずもありません。

どうもこの辺を検証する限り、「誰も傷つけないタテカンを、思い込みと決めつけの塊で攻撃した」とするS氏の言説自体が、「誰かを傷つける、思い込みと決めつけの産物」である可能性を示唆しています。

具体的に何が起きていたか - 生殖の権利と女をあてがえ論 -

そのことを確認したうえで、この問題が実際にどのようなものだったかを示しますと、

こちらの記事のとおり、東大に「弱者男性に婚姻の自由を、生殖の権利を奪うな」というタテカンが設置され、それに対し多様性を目指す東大有志のネットワークが公開抗議文

を送ったという問題でした。この、「弱者男性に婚姻の自由を、生殖の権利を奪うな」というのは、そもそも普通の感性だと「生殖の権利って何?そもそもそんなの奪われてる存在っているの?」となりますが、これはかなり前から2ちゃんねるやTwitter界隈で議論(にもなっていない暴論ですが)されている、「弱者男性に女をあてがえ(それによって、セックス=生殖の権利を保証しろ)」という主張を受けたものになります。

anond.hatelabo.jp

つまりは「全ての男に恋人、配偶者を保証して、セックスにアクセスする権利を保証せよ、つまりは生殖の権利を与えよ」という主張なわけです。 まだ奴隷制が存在する時代で、モノとして女性を男に下賜することができたような時代ならばこのような主張もできたのかもしれませんが、今の自由平等民主主義でそのような主張を通すのは無理筋です。 このような主張は、男性優位の社会でモノのように女性を見ることによって女性のエンパワメントを阻む考え方ですので、多様性を目指す東大有志のネットワークが問題視し抗議声明を出すのは当然です。

この多様性を目指すネットワークの宣言に異を唱えるということは、まだタテカンを出した当事者が抗っているならば、小さなコンテキストの争いだと強弁することもできますが、今回の場合当事者は納得して非を認め謝罪しひっこめているわけですから、小さなコンテキストでの争いなどにはなりようはなく、一般的な「弱者男性論での女をあてがえ論は是か非か」にならざるを得ません。 ところがS氏はこの宣言に異を唱えるわけです。ということは、S氏は弱者男性論者の、このような非人道的な主張を支持するということなのでしょうか。 さすがに、今回のことで関係を断ったとはいえ、10年以上も付き合いをしてきた相手ですから、彼がそこまでの異常人格者だとは私は思いません。 ただ単に彼は、「相手の思い込みと決めつけを指摘した、誰も傷つけないはずの自分の言説」が、実は「ド直球の思い込みと決めつけの産物で、思いっきり人を傷つけていた」という事実に向き合えないだけなのです。

S氏の脇の甘さ -言説を安易に「誰も傷つけないなどと言うべきではない」-

彼の主張をもう一度振り返ってみると、社会論をぶつにはいかにも脇が甘いです。 「誰も傷つけない」などという言葉を軽々しく使っていますが、世の中に誰も傷つけないような言説などそうそうありません。

少なくとも、社会的な争点に口を出すのであれば、自分の言説もまた誰かを傷つけうるということくらいは、先に織り込んでおくべきです。
ところがS氏の言い方からは、そういう構え自体が見えてきません
つまり彼のまずいところは、今回の件について個別に認識が甘かったというだけではなく、社会的な問題に対して意見を発するときの姿勢そのものが甘いということです。

たとえば、「誰も傷つけていない」という言い方ひとつ取ってもそうです。
ある言説が誰かを傷つけるかどうかは、発言者本人の主観で決まるものではありません。自分では公平にものを言っているつもりでも、実際には特定の立場の人間の痛みを踏み抜いていることはいくらでもありますし、むしろそういうことの方が珍しくない。
にもかかわらず、自分の目に見える範囲で露骨な罵倒や暴力がないというだけで、「誰も傷つけていない」などと言えてしまう。そこがまずい

実際には、先に見たように、あのタテカンやその擁護言説に触れて希死念慮にまで追い込まれる人が出ているわけです。
であれば、これは「ひょっとしたら傷つく人もいるかもしれない」という程度の話ではなく、現に傷ついている人がいるという話です。
この時点で、「誰も傷つけていない」というS氏の認識は、単なる立場の違いではなく、事実認識として既に破綻している

ただ、ここで問題にしたいのは、S氏が何か特別に邪悪な人間だ、という話ではありません。
むしろ、こういう誤りは、何か特別に悪辣な人間より、自分はまともにものを考えていると思っている普通の人間の方が、ずっと起こしやすい。

そこで、ここで一冊紹介しておきたい本があります。

非常に良いタイトルだと思います。というのも、差別というものを、何か特殊な悪人の特殊な悪意の問題としてではなく、善良で、常識的で、本人としてはむしろまともなことを言っているつもりの人間が、どうやって差別を再生産してしまうかという問題として捉えているからです。

差別というと、未だに多くの人は、差別意識むき出しで他人を罵倒するような、わかりやすい悪人を想像します。もちろんそういう人間もいます。差別を武器として振り回す人間は現にいる。
しかし、世の中で日常的に生じている差別のかなりの部分は、そういう露悪的な人間によってではなく、自分は中立だ、公平だ、誰も傷つけるつもりなどないと思っている人間の無知や想像力の不足によって生み出されています。
場合によってはそれは、悪意どころか、善意を契機としてすら生じる

「そんなに悪く取らなくてもいいではないか」
「感情的にならず議論すべきだ」
「決めつけで攻撃するのはよくない」
こういう言葉は、一見すると穏当で理性的に見えます。
しかし、文脈によっては、既に傷ついている側に対して、さらに『お前が我慢しろ』『お前が冷静であれ』という負担を上乗せすることになります。
しかも発言している側は、自分では理性的でバランスのよいことを言っているつもりなので、自分が何をしているのかに気づきにくい。
私は、今回のS氏の発言は、かなり典型的にその型に入っているように見えます。

おそらくS氏本人には、女性を蔑視しようとか、性的マイノリティを攻撃しようとか、そういう露骨な悪意はないのでしょう。
むしろ本人の中では、「思い込みと決めつけで人を叩いている側」に対して、冷静な異論を差し挟んでいるつもりだったのだと思います。
しかし、問題は本人のつもりではありません。
その言説が実際に何を擁護し、誰の痛みを軽く扱い、どの文脈を補強したかです。

そしてその点で言えば、S氏の発言は結果として、「女をあてがえ」論の延長線上にある言説を、雑に無害化して擁護する役割を果たしてしまっている。
ここに対する理解が、あまりにも甘い。
そして私は、こういう種類の甘さに対して、世の中の大人はあまりにもウブでピュアすぎると思っています。

差別というのは、悪意のある差別主義者だけが行うものではありません。
もちろん、差別心を武器として振り回す人間はいます。しかし、世の中の差別の大部分は、そういうわかりやすい人間だけで回っているのではない。
悪意がないから安全、などということは全くない
むしろ、自分は善意で言っている、自分は公平に見ている、自分は誰も傷つける気などない、と思っている人間が、自分の見えていないものを見ないまま差別を再生産する。現実には、そういうことの方がよほど多い。

しかも、これは別に他人事ではありません。
差別と戦う側に立つと自認している人間ですら、自分の不明によって誰かを傷つけてしまったと後から気づくことは、珍しいことでも何でもない。
少なくとも私にとっては、そんなことは日常茶飯事です。
自分ではそのつもりがなかった。悪意などなかった。むしろ良かれと思っていた。
それでも、後から振り返れば「あれはまずかった」「あの理解は足りていなかった」と認めざるを得ないことはいくらでもある。

なぜそうなるのかと言えば、差別とはしばしば、悪意からではなく、理解の不足から生じるからです。
自分が経験したことのない苦痛、自分が置かれたことのない立場、自分がこれまで気にしなくても生きてこられた問題について、人は驚くほど無知です。
そして、その無知のままでも日常生活はとりあえず回ってしまう。だから、自分が何を見落としているかにすら気づきにくい。

だから私は、少なくとも露骨に差別を武器として振り回しているような手合いでない限り、差別の問題は「一度も差別をしないこと」そのものにはないと思っています。
そんなことは、たぶん誰にもできない。
本当に問われるのは、差別だと指摘されたときに、その人がどう振る舞うかです。

立ち止まるのか。
自分の見えていなかったものがあるかもしれないと認めるのか。
まず事実関係と文脈を確認するのか。
自分の善意や、自分では理性的であるつもりだという自己評価より先に、傷ついたとされる側の訴えを検討するのか。
そして、自分の不明を認め、次から行動を改めるのか。

ここにしか、大人と子供の違いはありません。

今回の件で言えば、当の設置者たちは、抗議文を読んで納得し、反省し、謝罪し、自主的に撤去したとされています。
つまり少なくとも彼らは、指摘を受けて、自分の不明を認め、行動を改めるということをやったわけです。
ところがS氏は、当事者ですらないにもかかわらず、その決着のついた問題に外から割って入り、抗議した側を「思い込みと決めつけの塊」と断じ、自分の側を「誰も傷つけていない」側に置いてしまっている

これでは話になりません。
どちらがよほど大人であったかは、年齢とは無関係に明らかです。

大人として意見を発するということ

ここまで書いてきたのは、何もS氏個人を糾弾したいからではありません。
彼と私の関係がどうなったかは、所詮私事です。重要なのはそこではない。

私がこの件で改めて思ったのは、大人として社会に向けて意見を発するとはどういうことか、ということです。

それは、自分の意見が正しいと信じて堂々と述べることではありません。
自分の発言が誰かを傷つけうるということ、自分の見えていない文脈があるかもしれないということ、自分の「公平」や「中立」が単に当事者性の欠如を意味しているだけかもしれないということを、あらかじめ織り込んだ上で発言することです。

そして、間違いを指摘されたときに、まず自分を疑うことです。

もちろん、指摘する側が常に正しいとは限りません。
しかし少なくとも、社会的弱者やマイノリティ、あるいは既に傷ついている側から「それは違う」「それは苦しい」と言われたときに、最初から「思い込みだ」「決めつけだ」と切って捨てるようでは、大人として議論の場に立つ資格がない。
まず、自分が見落としているものがないか確認する。
その上でなお違うと思うなら、そのとき初めて反論すればいい。

大人であるというのは、何か完成された正しさを持っているということではありません。
むしろ逆で、自分がいくらでも間違える存在だと知っていることです。
そして、その間違いを認め、修正し、昨日までの自分を今日訂正できることです。

子供に見せるべきなのも、万能感ではないでしょう。
「自分は正しい」「相手が感情的だ」「自分は誰も傷つけていない」と言い張る姿ではなく、
「自分は知らなかった」
「そこは考えが足りなかった」
「指摘を受けて見直した」
と認め、自分を糺す姿の方です。

そういう姿勢があって初めて、社会について意見を言うという営みは、単なる自己満足や知性の演技ではなくなります。

S氏の投稿を見て私が残念だったのは、個別の論点以前に、その自分を疑う回路の弱さでした。
意見が違うことそれ自体は、別に構わない。
しかし、自分の善意や理性を根拠に、「自分は人を傷つけていない」と言い切ってしまうこと、それ自体が既に危うい。
そこに無自覚である限り、その人は年齢の上では大人でも、社会的な意味ではまだずいぶん子供です。

そして、私が最終的にS氏は駄目だと思い、関係を断つに至ったのも、まさにその点でした。
こちらは、彼が擁護していた当の主張者自身が、悪ふざけであったことを認め、謝罪し、撤回した、つまりS氏が執着していた擁護の前提そのものが崩れたことまで示しました。
にもかかわらず、S氏は、表面上は非を認めるような態度を取りながら、その実、自分が見えていなかった文脈に気づいたというよりは、どこか「ここまで嵌められたら仕方ない」「議論で言いくるめられたから引くしかない」とでも言いたげな態度を崩しませんでした。

しかし、こういう話は、議論に勝ったとか負けたとか、そういうことではありません。
自分の知らなかった文脈や経緯があり、そのために知らず知らず差別やいじめに加担していたのであれば、そこで問われるべきなのは、言い負かされたことを認めることではなく、自分の不明を認めることです。
そして、その新しい視点を理解し、次からは他人の足を踏まないように、自分の態度を改めることです。

私がS氏に決定的に失望したのは、そこに至る回路が見えなかったことでした。
彼にあったのは、どうも、自分の誤りを引き受けて視野を広げる態度ではなく、議論上の負けを渋々飲み込む態度に近かった。
その時点で、この人とはもう駄目だと思いました。
意見が違うからではありません。間違ったときの態度が駄目だったからです。

そして残念ながら、そういう「悪意がないから大丈夫だ」と思っている大人は、世の中にいくらでもいます。
だからこそ、こういうことは、わざわざ書いておく意味があると思っています。

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