Code for History

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オタクとフェミニストの表現の自由の衝突と、表現の不自由展での表現の自由の侵害について

Twitterで面白い議論があったので、Twitterで論ずるには勿体なすぎるのでBlogでご返答。

表現の自由を守るのに「~の表現の自由だけを守る」というのはありえませんよ。
もちろん一人の人間として活動できることに限界がある中で、分野により力が割けない手が回らないというのはあるかもしれませんが、表現の自由は守るならばすべての表現を守るものです。
そうは言っても俺たちの表現は攻撃してるじゃないか、というのは後で論じるので、総論はこうです。
特定の分野の表現にしか興味がない、とうのは表現の自由を守ってるのではなくて、その分野の利益を代弁しているだけです。
それが悪いと言ってるわけではありません、それはそれで立派な、完全にあってよい政治的立場ですが、それだけであるにもかかわらず表現の自由を前面に出していれば、他の分野での表現の自由に興味を持たなければ揶揄されても仕方ないでしょう。

なお蛇足ですが、建前上表現に貴賤はないとはいえ、もともと表現の自由というものは人類史上最初から存在したものではなく、こちらのリンクにも『なぜ「表現の自由」が権利とされたのか。それは17~18世紀の啓蒙主義の時代を経て、人々の考えや言葉もまた王政や教会権力に対する抵抗の資源となること、そして人々の考えや思想は権力から隔離された自由なものでなければならないと考えられたからだ。』、と書かれているように、国家権力に対して市民が自由に政治的主張を行う権利を、市民が戦った上で勝ち取ってきた者です。
つまりは元々政治的主張の表現を守るために生まれて勝ち取られてきたものであって、制限する意味はないのと、また権力がエログロナンセンスと言ったサブカルチャーへの弾圧を通じて社会を抑圧してきた歴史もあって、政治的表現に限らずあらゆる表現に拡張されていると思いますが、しかしその生まれてきた経緯から考えて、自分たちの分野の表現の自由は守るけど、政治の表現の自由は興味ないなんてのは、本末転倒で人類史上で過去の人たちが勝ち取ってきた成果にただ乗りしているだけになるんですよ。
繰り返しますが、「うちの分野の表現を守ることにしか興味はない」という立場はあっていい、それは立派な政治的立場ですが、そこで「表現の自由」を振りかざすから揶揄もされるしおかしなことになってるわけなので、『表現の自由には興味はないけど、俺はこの分野が好きだからこの表現をさせろ』と素直に表明すればいいのにと思います。

さて、それでは本題に戻って、なぜ「表現の自由は例外なく守られるべきなのに、責められる表現があるのか」という点に触れます。
それはそもそも論として市民社会の常識ですが、市民社会の構成員それぞれが自由と権利を持つ結果として、その自由と権利はしばしば、対等の市民同士間で衝突するからです。
力関係が非対称な権力対市民の間では、基本的には表現の自由は権利として認められるし認められる必要がありますが、しかし何でもかんでも自由に表現していると、他人の侮辱されない権利や差別されない権利を侵すこともありますし、また誰かが発言するのは自由でも、それに対して他の人が批判や異議申し立てを表明することもまた自由であるので、当たり前に市民の間の自由や権利は衝突します。
市民の間でも自由や権利は衝突する以上、理論的に自由は100%行使することは不可能で、衝突するところでは何らかの形で - たとえば社会通念とか、差別や加害行為はしてはいけないとか、等 - 自由を制限して調整される必要があります。
実際憲法上での規定でも、『表現行為が他者とのかかわりを前提としたものである以上、表現の自由には他人の利益や権利との関係で一定の内在的な制約が存在する。内在的制約とは、第一には人権の行使は他人の生命や健康を害するような態様や方法によるものでないこと、第二には人権の行使は他人の人間としての尊厳を傷つけるものであってはならないことを意味する』とあり、さらに『通説は表現の自由日本国憲法第13条の「公共の福祉」による制約を受けるとする』とされています。
この「公共の福祉」とは、『「社会全体の共通の利益」であり,「ほかの人の人権との衝突を調整するための原理」』であって、政権の都合などで制限をかけられるものではなく、飽くまで市民間の衝突を調整する結果としての制限にすぎません(もちろん、性器を含むわいせつ表現などのように、調整が法律などに記された結果、権力により管理されることはありえます)*1

このような調整の結果、表現の自由と言っても無制限に認められるものではなく、一定程度の制限を加えられるのは普通にあり得ることです。
性器を含むわいせつ表現や、ドイツでのナチス表現のようにそもそも表現が許されていないものもありますし、ポルノなどのように、表現そのものは認められているものの、18歳未満の前や公共の場では表現できない等、表現できる範囲が限られているものもあり、またその制限の根拠も法的に許されていないもの、法で定められているわけではないが表現者や業界の慣習で避けているもの、TPOから個別に判断しているものなどいろいろです。
また、この制限自体、未来永劫変わらず一意に決まっているものではなく、時代や社会通念、人々の権利意識の変化によってどんどん変わっていくものです。
私の若いころには、テレビでゴールデンタイムのお笑い番組に裸の女性が出ることもありましたし、職場や大学研究室などに男性社員がヌードポスターやヌードPC壁紙を貼っていてもお咎めはなかったし、飲み屋ではビールの販促にヌードや水着女性のポスターが貼られているのは当たり前でしたが、そういったものもそれを不快に感じる女性たちが声を挙げたことで、今では必ずしも法規制されているわけではないものの、それらは見なくなっていますし、表現自体は規制されていなくても一定のTPOの元では非常識な表現として受容されてきています。
こういった表現の制限の変化は必ずしも制限がきつくなる方向にだけ働くわけでもなく、たとえば私の若いころは陰毛が写っていてもわいせつ物だと規制されましたが、今は18歳以下の目に触れない等ポルノの表現規制を満たしている範囲では、陰毛が写っている表現も認められるように変わってきています。
いずれにしても大切なのは、自由と権利の衝突を調整した結果として表現に規制をかける規範は、過去から未来まで変わらず一緒だったわけではなく、変わっていくものですし、そしてその変わりつつある時は、新しい権利の異議申し立てをする人々と既存の価値観を持つ人々の間では、衝突が起きるものだということです。
今ではアメリカでも黒人が白人と同じ学校に通ったり同じバスの席に座ったりするのは当たり前ですが、その権利を勝ち取り新たな規範にできるまでの間は、同じ学校に通おうとしたり同じバスの席に座ろうとした黒人は、白人から激しく攻撃されたり、官憲に逮捕されたりもしました。
それと似たような段階が、今のフェミニズム周辺での表現問題の現場で起きていることだと思っています。

いや、誰かの表現を批判するのもまた表現の自由と言っても、少しでも批判されればすぐ元表現が制限されるのでは表現の自由など絵に描いた餅になるのは確かです。
人の好き嫌いの感覚は千差万別である以上、それこそアンチフェミニストたちがよく使う用語の、個人の「お気持ち」程度で表現の範囲が妨げられるようなことがあってはいけません。
が、私は昨今のフェミニストたちの公共の場での性的強調された表現の制限の主張は、かつての歴史上の黒人の生存権拡大や公共の場からのヌードの排除などと同様、個人のお気持ちレベルではなく普遍性を持ちうる主張だと考えています。
恥ずかしながら私自身、かつてはずっと非モテだったこともあり、口に出したことこそなかったものの内心では、「しょせん女性はイケメン無罪なんでしょ」とか思っていた時期もありましたが、エロに飢えていたこともあって現役/引退AV女優や若い女性のSNSなどをフォローして見ていた結果、多くの女性が小中高と言った若い頃から、男性側から性的にモノのように消費搾取しようとするまなざしや痴漢などの実害を、イケメン無罪とか関係なく素で本気で嫌悪しているし、気持ち悪がっているということを理解しましたし、なので過去のさまざまな権利獲得活動と同様、女性が気持ち悪い男性の性的欲望を日常で意識させられることなく気持ちよく暮らせる権利も確立されるべきものだと私は思っています。
もちろんそれに対し、黒人の生存権拡大に対し多くの白人が抵抗したように、俺たちの街角シコリティを守れ、俺たちは自分のプライベートな部屋だけでなく公共の街角でもシコリティの高い絵を見てムラムラしたいんだ、その権利を持っているんだ女性の嫌悪感など知ったことかと、反対の立場で言論を展開するのも立派な政治的立場ですし、主張して現状維持を勝ち取ろうとするのも全く正当な表現の自由です。

ですが勘違いしてはいけないのは、双方の立場とも相手にすべきは社会であって、別にこれは相手を論破し認識を改めさせるゲームではないのです。
黒人の生存権拡大でも、差別主義者の白人が認識を改めたから黒人の生存権が拡大したのではなく、いまだに内心黒人差別のレイシスト白人は山ほどいますが、そういった社会の変化についていけない差別主義者連中が認識を改められないのを置き去りにして、社会の大勢が黒人の生存権拡大という新しい価値観に納得すれば、社会通念は動くのです。
フェミニストがオタクを納得させられなかろうが、あるいは逆にオタクがフェミニスト折伏できなかろうが、社会の大勢、あるいは個々の事件のミクロでみるとJAや献血センターと言った判断主体が、どちらかの主張に納得して行動に反映すれば、変わるにしろ現状維持にしろ社会通念は決まるのです。
その意味で、このフェミニストとオタクの一連の諍いは、表現の自由が妨害されている事象ではなく、単に双方が表現の自由を行使した結果、当たり前に起きる衝突の調整プロセスに過ぎません。
まだ、フェミニストの側が、「性的にきわどい表現に存在の場を許すな、発禁にさせろ」と主張したり、主張内容を実力で勝ち取るために迷惑行為テロ行為の実力行使に出たり、政治権力を動かして弾圧したりすればフェミニスト側が表現の自由を侵そうとしていると主張できますが、穏当に「そのような表現はあってもよいが、公共の場では控えるべきである」と主張しているだけの限りで、かつ実力行使したりもなく穏当に自分たちの権利要求を伝えているだけの限りにおいては、許された正当な対抗言論の表現の自由を行使しているだけであって、「表現の自由を侵害している」などと非難される類のものではないと言えるでしょう。

これに対し、表現の不自由展の方はどうか?
天皇御真影を燃やすな」などというのは個人の思いとして主張するのは自由ですが、全くもって主張する人の気分を害したという程度の「お気持ち」でしかなく、なんら普遍的な権利侵害の主張に昇華できる余地のないものです。
むしろ、表現の自由などなかった戦前の時代に、「不敬罪」という形で天皇に関する表現が制限されていた時代があったことを考えると、どのような立場からの人の主張があろうと、完全にこれはあってはならない表現の自由の制限にあたります。
さらに表現の不自由展の場合、テロ行為に近い実力行使によって表現を遮ろうとする行為や、行政担当者が先頭に立って表現の場を奪おうとする動きもありました。
これは表現の自由の侵害の一丁目一番地であり、自分の興味ある分野だとかそうでないとかにかかわらず、これに声をあげないのであれば表現の自由にかかわっていると主張すべきではありません。

以上長くなりましたが、まとめますと、以下の通りになります。

  • 公的な場での性的にきわどい表現の是非に関するフェミニストとオタクの諍いは、表現の自由の侵害ではなく、お互いの表現の自由が衝突しているだけである。フェミニストの権利要求に対し対抗言論を行うのも全く正当な政治的権利だが、そこで表現の自由の侵害などを持ち出すべきではない。
  • 表現の不自由展は、教科書に載るようなド直球の表現の自由に対する侵害であり、それに声をあげないのであれば表現の自由に関わっているなどと主張すべきではない。

*1:ちなみにですが、この権力側からの制約ではない「公共の福祉」概念がよほど気に入らないのか、自民党改憲案では「公共の福祉」がほぼ「公益、および公の秩序」という権力側からの関与、定義を可能にする概念に書き換えられています

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