Code for History

"Code for History"はIT技術を歴史学上の問題の解決に使うコミュニティです。強調したいのは、我々にとってIT技術は「手段」であって「目的」ではありません。「目的」は歴史学上の問題を解決する事であって、必要であればITでない手段も活用します。常に最優先なのは、問題を解決することです。

<ここギコ復刻> 街頭募金に意味がないとは思えない

私、10年くらい前にここギコというサイトを運営していて、位置情報技術や社会問題、政治などについて取り上げていました。
そちらはサーバ落としてしまったことなどもあって、消えたままにしてしまっていました。

ですが、今日、Twitter上でこんな投稿を見て。

で、私のそのここギコでの過去記事をInternet Archiveで引いたうえで、こういう反応を返したのですが、

やっぱり、10年以上前で私も雑い議論だったところもあるかもしれないとはいえ、一度論じたことが消えちゃうのはもったいないので、いくつかピックアップして今後再投稿していきます。

今回は件のTwitterで引いた、街頭募金に関する内容。
元記事の投稿日時は、2009年03月02日01:14です。


募金箱を置いて街に出よう -Danas je lep dan.-

何だって,募金箱を抱えて声を張り上げるのか。人の目を惹きつけるようなパフォーマンスでじゃらじゃら金を稼いでいるというならともかく,さっきから,誰も金を入れてないじゃないか。時間の無駄だ。どこかでバイトして,その金を寄附しろ。そっちの方が絶対コストパフォーマンスが良い。

正直、私もそう思ってた時期もあるんですけど、こういうのって効率だけの問題だけでもないような気もします。

確かに、一人の募金ボランティアが得る金だけを見れば、その人らがバイトした方が実入りはいいんでしょうけど。
でも、最大の問題は、そういう形で金を作っても、社会問題がその社会問題に取り組んでいる人達の間で閉じてしまって、なんら社会に共有されないことじゃないでしょうか。
その意味では、確かに一人の額としてはバイトの方がいいとしても、バイトで一人が稼げる額なんざ高がしれているわけで、社会問題を社会で共有することによって相乗的に効果が得られることを考えると、必ずしも街頭募金に意味がないとはいえないと思います。
そういう情宣的な意味合いも含めて、コストと効果を考えるべきではないかと。

実際に誰もお金を入れてないじゃないか、という話もあるとは思いますが、街頭で寄付を見かけて社会問題の存在を知っても、寄付を求められても忙しいからと通り過ぎることもあるし、(寂しいことに)虚偽の寄付を隠れ蓑にした資金集めをする怪しい詐欺団体も少なからず存在するわけなので、街頭では募金せず、戻ってネットで調べたりして裏を取ってから募金するようなケースもあります(実際、私は)。
また、元ブログ主は「レジ横の募金箱は許す」と書かれているけど、そのレジ横募金だって、普段ならいちいち気にも留めないけど、街頭での募金を見かけた後でなら「あいつらダメだよなあ、こういう形で効率的にやれよ」と思いつつ募金する、ということもあるのではないでしょうか。
バイトの金も寄付の金も同じなのと同様、別にどこで寄付しようが、或いは他団体に寄付してさえ、社会問題に対しお金が渡るという点では同じです(詐欺団体でない限り)。
必ずしも、その場で寄付がないからと言って、情宣効果がないとは言えないのでしょうし、単にその場で得た寄付金だけではなく、そういう情宣効果も含めて効果と考えると、街頭募金に意味がないとは思いにくいです。

とはいえ、実際全然社会問題が通行人に伝わっておらず、箱を持って突っ立っているだけという感じのダメダメな募金もあるわけですが、それはその個人であったり団体のスキルやマネジメントの問題であって、必ずしも街頭募金が否定されるものではないと思います。
もちろん、なんにでもマネジメントがないよりある方がよいとは思うので、単に募金箱を持たせて後は個人の技量任せとかより、何らかのイベントで注目を集めたり、広告打ったりして効率的に情宣することで募金額も最大化する、といった施策もあってもよいでしょう。
が、「あってもよい」というのと「ないのが悪い」というのはまた違う話で、別に、何でも最大効率化されていなければいけない、悪だ、ということはないのではないでしょうか。
むしろ、それこそ効果は最大化されていたとしても、寄付なのに情宣費にやたら金使ってたりしたら、それはそれで批判する奴が沸くんじゃないの?とか思ったりもしますし。

情宣目的なら情宣目的で、人を一人張り付かせておくような高コストな方法でなく、ネットとか、違う効率的な手法を取ればいいんじゃないの?という話もあると思います。
でも、実際問題、まだ今ですら、ネットは万能ではないし、リーチするのはほんの一部の人達です。
今一番金持っている初老以上の世代は、大半がまともにネットを使いこなせないと考えていいでしょう。
そういう層にリーチできるのは、今でもやはり旧来どおりのアプローチです。
ネットを使える層に対してすら、基本今のネット利用は検索がベースになっている以上、そもそも関心を持っていない不特定多数を巻き込んで、社会問題に気づかせると言う形でのリーチはできないと考えていいと思います。
また、ネットは人や実際のものが介在しないと言うのも大きいです。
私自身、阪神大震災の時に募金のために街頭に立った経験(募金じゃなかったっけ?単にビラ撒きだったかも)もあるけれど、いろいろ問題を訴えていると、中高年のおっちゃんおばちゃんなんかはいろいろ話しかけてきて、生の情報を得ようとコミュニケーションしてきます。
興味を持ってもらったその場で、生で情報を相手の望む形で交換できるのは大きいです。
ネット上で一方通行の情報を配信するのは、多くに単一の情報を伝えるのには向いているけど、こういうのには向いてません。
うちの息子なんかには、街角で募金しているのを見かけたりすると、それをきっかけにその社会問題を息子に説明して、息子に納得させておやつやおもちゃのお釣りなんかを寄付させたりさせることもあるけれど、こういうのも実際の自分のお金を自分のその手で募金させ、募金の人からお礼を言ってもらったりするからこそ社会勉強になるのであって、実際に同じお金が動いたとしても、ネット上のクリックでは何も学べないと思います。

それと、最初に立ち戻りますが、寄付に立つ代わりにバイト等の労働で得るお金を社会問題に、という話は、別の問題もあるように思います。
寄付は、(たとえそれがどれほど崇高な目的であろうとも)通常に社会が回っている中で、個々人が善意で生じる余剰金を提供するからこそ意味があるのであって、いかにお金が必要だからと言って、通常の社会生活のサイクルの中に食い込んでくるのが健全だとは思えません。
「社会問題解決に必要なお金を得るために、労働する」といったところで、企業がそれを聞いて「ほう、それは感心、特別な働き口を作ってあげよう」と言ってくれるわけではなし、労働市場に供給される「働き口」は同じである以上、「社会問題解決に必要なお金を得るために、労働する」ことを誰かがした場合は、それは本当に生きていくために労働が必要な人の働き口を、その分奪ってしまうことになると思うのです。
なので、「寄付に立つ代わりに労働してお金を得る」的な考え方は、一面では危険なのではないでしょうか。

上記のようないろいろな視点から、私は街頭募金に意味がないとは、必ずしも思えません。

© Code for History