Code for History

"Code for History"はIT技術を歴史学上の問題の解決に使うコミュニティです。強調したいのは、我々にとってIT技術は「手段」であって「目的」ではありません。「目的」は歴史学上の問題を解決する事であって、必要であればITでない手段も活用します。常に最優先なのは、問題を解決することです。

汎用指向の方からニッチな活動が評価されないのと同様に、ニッチなユースケースから汎用データが評価されないのも当たり前じゃね?と思う話

これは誰を責めるとかでもなく、こんなこともあった、という上で自分の感じてることを述べる枕とするだけなのだけど、

先日、某地域のMaplatを整備する議論をしていた際に、観光情報としてピンを立てたいのだけど、その場所に使える観光オープンデータがない、OSMでPOIをサーチしてもショボいし、でもない以上仕方ないので、Wikipediaoverpass API + Wikidata APIOSM検索した結果の表示で妥協するか、みたいな話をしたところ、その話をしていた相手の人に、一生懸命労力費やしているOSMをショボいデータ扱いされて悲しかった、という反応を受けたことがあって。
いや、その感覚が逆に全く分からないのだけど、かけた労力とか関係なく、ちゃんとそれ向けに使うことを想定してて作られていないユースケースで使えないと言われたからと言って、当たり前だと思いこそすれ、残念だと考えるのっておかしくない?
いかに偉大なプロジェクトでも、それで全てのユースケースが満たされるのだ、それで満たされる範囲で各ユースケースは我慢しなければいけないのだ、という発想の方が傲慢じゃない?

ぶっちゃけ、この手のサイトばかり作ってきた身としては、妥協案の「Wikipediaをoverpass API + Wikidata APIOSM検索」ですら不満しかないのよね。
別にマイナーな地物で、Wikipediaの分量がミニ読み物程度しかない地物なら割と必要十分なんだけど、観光アプリに興福寺のピンが立っていたとして、

ja.wikipedia.org

この分量を観光の出先で観光客が読む?
観光客向けに想定するコンテンツなら、やはり観光客がちょこっと知りたい範囲のことをコンパクトかつ必要十分に満たした専用データがまた別に必要だよね、と、本気で各ユースケースを考えていたら思うわけで。

なので、会津若松市水戸市のこういうオープンデータが貴重なわけです。

www.city.mito.lg.jp

data.data4citizen.jp

これらの街のこういったデータの存在が私の考えていたユースケースにベストマッチだったからこそ、感動して、他の町でも整備したいと思い、(まだ活用できる形で公開してないけど)会津若松のデータは英訳版も作ったり、「ぷらっと館林」で使ってる館林の観光データなんかは自分で一から作ったわけです。

s.maplat.jp

まあ、思ったより大変なので、結局他の町などには拡張できずに、他の町ではWikipediaOSM検索みたいな妥協案に走ってるわけだけど、本気でユースケース考えてたら専用のデータ作るのが当然だし、そして館林のデータ作るために、私は(全部活かしたかはともかく)10冊20冊レベルの本に目を通すくらいの労力を費やしてるわけで。
そのくらい労力かけてつくるものが本来のユースケース的にはベストマッチのところに、OSMのメインユースケースには必要十分とはいえ、町はむちゃくちゃ歩き回ったんだと思うし大変だったとは思うんだけど、本の一つも開いたわけではなく整備したデータを、観光コンテンツに使ってほしいし不十分だと言われたら悲しいとか、むしろこちらの方が、その程度のデータしか必要でないユースケースと思われてるのが悲しいというか、傲慢さを感じてしまうのですよ。

というか、汎用データの必要性はわかるしそこに労力が集中するのもわかるけど、みんなそれを万能に考えすぎ。
果てはOSMは自動運転にも使えるとか、どれだけ個別ユースケース舐めてんねん、という感覚しかない。
その業界に従事している身からすれば、OSM単独なら自動運転どころかナビゲーション用途にすら全く足りない代物でしかない*1
汎用で個別ユースケースの機微に気を払ってないデータが、注目されているオープンデータだという理念先行でそのまま無批判で社会システムの中心に検討されてくるようになると、たとえそれが検討レベルだとしても、なんか社会に不幸しか呼ばへん感覚がある。
それって、トップダウンボトムアップかが違うだけで、結局単に「選択と集中」になっとるだけやんけというか。

必要なのはもっと多様性やろと。
(後で書くように、別に自分の活動をもち上げたいために書くわけじゃないけど)私も奈良地蔵オープンデータとか館林石造物オープンデータとか、みんな最初はWikiなんちゃら系をプラットフォームにして整備してたけど、だんだん自分の考えてるユースケースと汎用データ仕様が合わなくなってきたので、独立して整備するように切り替えたんだけど、結局いろんな用途に本気で対応させてクリエイティビティを出そうと思ったら、譲れない部分で汎用から外れていくのは当たり前だと思う*2
特に大した要件のないユースケース古地図のオープンデータ化とか)は、今でも汎用Wikiなんちゃら系をプラットフォームにしてますしね。
多様性が重要だと思うから、汎用から外れることに躊躇しないし、逆にいうと自分が個別のユースケースしか考えてるのは十分に理解しているので、どんなに頑張っても、汎用のユースケースしか見えてない人に評価されないのは当たり前だと思うので、別に評価されないから辛いと思うこともないです*3
一生懸命頑張ったのだから評価されるべき、というのならば、私なんかCode for Historyの活動で、先日計算することが合ったのだけど、Maplatの開発活動だけでも3000時間以上費やしているので、普通に評価されてもいいはずなんだが、ユースケースがニッチ過ぎるので汎用指向の人に評価されなくても気にもならない。
同様に、汎用ユースケースで一生懸命整備されているデータでも、ニッチなユースケースの立場から見て、これ使えないなと判断するのは別に全く問題ないと思うし、そこで傷ついたとかって少し傲慢になってない?と個人的には思ったりするのです。

*1:ただし、OSM+αは全く否定しない、うちの製品でもOSMを一部材料に使うかという議論も出てき始めているし

*2:飽くまで個人的思考法ではですが

*3:私がたまに人と揉めてるのは、明らかにこちらの成果から実利を得ているのに、それを還元しない連中と揉めてるだけなので、別にそもそも他人からの評価がないと辛いということはないです。もちろん評価されると嬉しい、というか本当は辛いけど評価を要求できるような活動は自分はしてないというのはわかってるので別に評価されないからといって辛いと口にすることは基本ない。

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